Brave(ブレイブ)です。
この記事ではぼくについての生い立ち、
あらすじなんかを書いていこうと思います。
長めの自己紹介です。(9700文字ちょい)
目次
幼少期
ぼくは東京で生まれました。だいたい30年前です。
生まれた時から体重も軽く痩せていたそうです。
幼少期は靴ひもがうまく結べず、
「出来ない…出来ない…」と泣いていた典型的な弱虫でした。
嫌いな食べ物も多かったです。
ピーマン、ナス、イカ、春菊、きのこ、、、(現在は食べられます)
少年・青年期
小学校では何もしなくても運動も勉強も出来る子でした。
好きなゲームはスーパーファミコンのMOTHER2やクロノトリガーやドラクエ6、
聖剣伝説Ⅱなどでした。
ポケモン初代の緑がすぐに買えず、
お年玉を待ちながら友達から説明書を借りて
ひたすら読み込んでいました。
テレビゲームばっかりしていて、
こんな面白いものを作りたいと、
ゲームクリエイターに憧れたりしました。
図書室で借りられる上限いっぱいまで児童書を借りて
家の石油ストーブの前で読みまくって、
同じ姿勢で読んでたら服が熱くなりすぎて「あっちぃ!」とか言ってました。
母が買ってくれた、
こども向けの図鑑の怪獣のページの載っていたグリフォンに一目惚れしました。
グリフォンは、鷲(あるいは鷹)の翼と上半身、ライオンの下半身をもつ伝説上の生物。日本では、「鷲獅子(じゅじし)」と訳されることもある。
出典:Wikipediaグリフォン
ワシとライオンの合成怪獣です。
とても強そうでカッコいいなと思っていました。
ほんの少しだけモテました。
「こんな弱虫なぼくがなぜなんだ、なんか知らないけどぼくはすごいんだ」と
勘違いしたり天狗になったりもしました。
けれど、基本的に内弁慶で内気です。癇癪を起こしたりもしました。
中学生になってからは、理科と音楽の授業が好きでした。
理科の授業での根源的な「なんで?」を考えるのがとても楽しかったんです。
「なんで10m先まで進むのに車より走る方が速いの?」だとか
実験でアルコールランプの火を見ながら「綺麗だなあ…」だとか思っていました。
生き物の進化とか、好きでした。
音楽の授業では、声が高く、
テノールパートを一生懸命歌いました。
たまに「Brave(ブレイブ)って上手くない?…」と
ヒソヒソ声が聞こえて、嬉し恥ずかしでした。
マンガのHUNTER×HUNTERやONE PIECEにドハマりしました。
中二病デビューして、帰り道で後ろから追手が来ていないか確認したりしていました。
小中一貫して、書道の授業で右手で書かせるのを強要する先生は大嫌いでした。
ぼくは左利きです。
高校生になりました。
家庭の事情などもあり悩む時間が増えていきました。
「ぼくが生きる意味…みたいなものはなんだろう?何のために生きているんだろう?」
「この人生、なに?」
疑問がネガティブに膨らみ、
「ぼくは生まれてきてしまってよかったのか。
生まれない方がよかったのではないか?」
というようなことも考えました。
中二病で頻出する「存在意義」だとか「存在証明」をものすごく欲したわけです。
ぼくも強くカッコよくなりたいと。
そんな時ふと、小学生の時に憧れた、グリフォンを思い出しました。
少し調べてみると、ワシはイーグルアイ【優れた観察眼】持っていて、
ライオンはライオンハート【勇敢な心】を持っているそうです。
それらがどちらも欲しいと思い、
あやかって当時ガラケーのメールアドレスにしました。笑
この時期は第二次性徴期真っ只中で、
お肌がすごく荒れました…。変声期で声は少し低くなりましたが、
まだ高い声は出ました。(今も出せます。)
部活動はテニスを始めました。
テニスの王子様が流行っていた時期でした。
左利きだということもあり、サーブが得意でした。
打球の回転が逆なので逆方向にボールが曲がるんです。
ただ、悩める若者まっしぐらだったこともあり、
失敗するとイライラしていました。
イライラが伝染して空気を重くしてしまうので、
ダブルスよりシングルスプレーヤー向きでした。
授業では、数学が嫌いになりました。
「これ知ってどうなるの」という疑問が主な理由でした。
振り返ると生物と体育と倫理が好きだった…と思います。
文化祭というものを経験して、有志ライブというものを見て、
うわーすごい!と思いました。我ながらベタだったと思います。
19(ジューク)やゆずがオリコンなんかでチラチラ顔を出す時期でした。
ぼくはアコースティックギターがほしくなり、アルバイトを始めました。
和食レストランのキッチンでした。
人生初のギターはYAMAHAの入門モデル。大体3万円でした。
当時のぼくにとっては高い買い物でした。
部活動と学校と両立しながら時給800円ほどのアルバイトで3万円稼ぐのは大変でした。
あまりお小遣いをもらってきていなかったこともあり(ゼロではなかったです)、
アルバイトで稼いだ少しのお金で部活動帰りに
菓子パンとジュースを買うのが日課でした。
とにかくお腹がすいてしょうがなかったです。
部活動とアルバイトばかりしていたので、外の遊びとはほぼ無縁でした。
高校でもそこそこモテたようですが(あまり自覚がないです)、彼女も出来ず童貞でした。
体格の変化としては、中学1年で140cmだった身長が、
高校3年には175cmまで伸びました。
ずっとチビだったのに急激に伸びたせいもあり、
自分という存在がとてもちっぽけであるという
一種の劣等感みたいなものは未だに心の片隅に在ります。
そして、「ヒソヒソ話されるくらいのカッコよさもあるんだ」という
少しの優越感も未だにあります。笑
たぶん生粋の、「猿山の大将」気質なんでしょう。
仲間内ではイキってオラつくみたいな?えへへ
いわゆるだせえ&いてえなヤツですよ。
でも、それがぼくです。
そして高校3年、受験シーズンになりました。
その時代は基本的な進路は大学進学が大メジャーでした。
今みたく起業だとか自分探しの放浪だなんて価値観は
当時のぼくの中では皆無でした。
ですが家計は貧乏でした。選択肢としては国公立のみ。
私立をチョイスする気にはなれませんでした。
金銭的な申し訳無さが強かった。
しかも「本当にコレでいいのか?」という疑問を持ちながら受験に臨んだので、
なおさら授業料が高い学校は受験する気になりませんでした。
部活を引退したあたりで、勉強の時間を作るためアルバイトを辞めました。
「落ちたら浪人かな…」なんて気構えで受験。
落ちました。
そして、夢追い人に
高校を実質卒業して、3月後半から何もない日が続きます。
当時の春休みにあたる時期です。
「そもそも大学生になりたいか?」とモヤモヤしつつ、
「このモヤモヤ自体を、
ぼくの存在自体の理由を、知りたい。ならば心理学だ」
なんて考えで浪人生活をスタートさせます。
勉強勉強、ちょっとギターみたいな生活です。
そうです、ギターはまだ手元に残っているのでした。
お金は模擬試験代や参考書代などで
どっちにしても必要だなと思い、
新しくアルバイトを始めます。
在学中とは別の、和食レストランのキッチンでした。
あいかわらずモヤモヤしながら電車で通勤していました。
レンタルCDの音をコピーしたMDを聞きながら。
確かこの時期、いや種火は受験前だったか、
あることに気づきます。
それは、
「生きることがしんどくてもつまらなくても、ぼくは音楽を自然にいつも聞いているな」
ということです。
そう、MDを聞いていたんです。通学中も通勤中も、
自宅で受験の勉強中でも。
それに気づいたあたりから、
「心理学は大学じゃなくても独学でもいいかもな…
お金もかかるしな…」
「音楽、やってみようかなあ…」といった意識に変わり始めました。
そんな時、ひとつの、ぼくにとっては大きな出来事がありました。
忙しすぎて上司のキッチン長(肩書き忘れました)に
後ろから尻を蹴られました。
確か、「さっさとしろボケ」みたいなことを言われました。
やっこさん相当イライラしてましたね。
そこまで遅い動きではなかったことと、
その前のグチの話の感じからしてどうやら八つ当たりでした。
そして6月に和食レストランのアルバイトを辞めました。
その店では3ヶ月足らず。
18歳のヒョロガリのぼくは、
胆力とか忍耐とは程遠かったと思います。
「尻を蹴られてまでここで働く理由ない」
「こいつのイライラの心理とは?」
「そんなことより自分の向かう方角を決めよう」
「もったいない時間の使い方、してらんない」という思いがセットで押し寄せました。
7月。一旦受験勉強もストップして、立ち止まりました。
学生ではないため身分証明書がないことがこの先ネックになると思い、原付の免許を取得しました。(後から親の扶養の保険証に気づきました)
新しくアルバイトを探しました。
レンタルショップでした。
普段からCDを借りに通っていたレンタルショップではなく、
隣町の店舗でした。知り合いと会いたくなかったからです。
あと、あまり話したことのない知り合いが、
ぼくよりもほんの少し前に、よく通ってた方のショップで
働き始めたのを知ってしまったからです。
「仲良くしよう」よりも「カラミたくない」と、とても内気でした。
コミュ力はあまりないです。
8月。アルバイトで稼いだお金で
CDを社員割引で安くレンタルしては、
MDに焼いて流しながら勉強とギターの日々がスタートしました。
疲れて勉強に支障が出ることを懸念して
週3日からスタートしたのですが、
和食レストランと比べたら圧倒的に楽しくて
すぐに週5日働くようになりました。
スタッフも仲が良く、年上の大学生スタッフや、
主婦スタッフさん、フリーターの大御所さん社員さんたちから
いろいろなことを教わりました。エセ浪人生ということで、
進学についても考えながら話を聞きました。
そして、結論にたどり着きます。
「大学に行くの、やめよう」と。
「フリーターしながら、
音楽の道を行こう、好きを仕事にしよう」と。
ギターの猛練習を始めました。
すげー曲を作ってキャーキャー言われるんだ!
っと鼻息荒くしてました。(内気なクセに…)
忘れもしない10月31日、
時間は会社帰り狙いの19時頃、
生まれて初めて路上ライブを決行しました。
(当時はハロウィンがそんなにお祭り騒ぎではありませんでした。
路上ライブも規制が激しくなく、
黙認といった感じでした)
家から5駅の、多少人通りがある明るい駅前ロータリーです。
スピッツのチェリーという曲と
オリジナル1曲のみで挑みました。
緊張して、ボロボロでした。10人くらい足を止めてくれましたが、
音程はガタガタ、歌詞間違え、しかもギターのテンポもひどいものでした。
演奏中にミスに気づきまたミスを生みました。
準備ふくめ、ものの30分程度で逃げるようにその場を後にしました。
(その時もぼくは事前に知り合いに声をかけたりせずに、
一人で、唐突に路上ライブをしました。
サクラゼロのシングルスプレーヤーでした。)
ヘコみました。それはもうヘコみました。
それでも、挑戦した事実と、
負けた事実はこころに刻まれました。
たった数分でも、約10人が足を止めて見てくれたんです。
このことを心理学の独学に活かしてみたり、
この気持ちを曲作りにぶつければいいんだなどと自分を励ましました。
路上ライブが終わり気落ちしている間に、
週5日アルバイトの日々と初めてのダイニングバー(というか外で遊ぶことそのもの)に
連れてってもらったり彼女が出来たり、
アルバイトスタッフの中でバンドやってる人と繋がったりしました。
「ああ、遊んで暮らしたい」などと考えたりしました。
「よし、ぼくもバンドだ」と思い立ち、
昔からの友達の輪でコピーバンドを組みました。
当時ぼくは「シンガーソングライターだ」
「作詞作曲してそれを歌って印税ガッポガッポだ」
…なんてことになるつもりだったので、
ボーカルとギター担当でした。
(結局そのバンドではライブをせずに自然消滅してしまったのが少しもったいなかった…)
コピーバンドで練習しつつ、
アルバイトスタッフとオリジナル曲のバンドを組み、
作詞作曲と練習を始めました。
伝わる言葉で、オーディエンスを泣かしてやると
目論んでいました。
そんな感動する言葉ってなんだ?と
大量に本とマンガを読んだりしました。
彼女と遊びながら、エロいことを考えながら。
そしてオリジナルでの初ライブ。またボロボロでした。
またヘコみました。
けれど、その道で行くんだと決めた以上やるんだ!と
言い聞かせながら、実家を出て、
練習とアルバイトとライブと彼女と別れたり
新しい彼女だったり一人暮らしだったり同棲だったりの日々です。
ながらながらで毎日を繰り返して行くうち、
金銭面が厳しくなりました。バンドでかかるお金、
遊びでかかるお金。毎月の家賃。
アルバイトを変えることにしました。
時給がレンタルショップより上で、
万が一の時に社員登用があるところに。
そんな時、コピーバンドもオリジナルバンドも、
どちらも解散することになりました。
そして、また練習&社員登用系アルバイトの日々です。
その時の彼女との結婚がチラつきながら…。
新しくオリジナルバンドを組みました。
そのバンドでも鳴かず飛ばずといった内容でした。
お金の余裕はありません。
結局結婚には至らずに、その時の彼女にはフラれました。
そもそもの結婚に対する気持ちと、金銭面と、
夢か現実か、などの食い違いから来るもの…だったと思います。
ぼくの器が不足していた。
とにかくフラれました。
とてもヘコみました。激ヤセしました。
体重が10キロほど落ちました。
ですが、原因は自分にありました。
少しずつ少しずつ立ち直り、またバンドの日々です。
2010年のことです。
そして…地震
社員登用を視野に入れたアルバイトの
「ちょっと残って働いてくれない?3時間だけでいいから…」の
ちょっとに嫌気が指していました。
「1曲4分半、1コーラス1分半だとして、
3時間もあればどんだけ感動出来ると思ってんじゃい」
とか考えてました。
知り合いの知り合いくらいの仲間内でカラオケに行って、
歌ったら感動して泣かれたりして、
ニヤニヤしてる時期でした。
このバイト先で社員になったら相当大変だぞと思っていました。
バンドの練習どころではなくなります。
なのでアルバイトを変えることにしました。
早朝に働く飲食バイトと、週1〜2日、
工事現場の交通整理をする警備員の掛け持ちでした。
これなら夜、ゴールデンタイムは基本的にバンド活動に時間をあてられると踏んだからです。
ツテでバンドのCDを作らせてもらえる機会があったり、
若干自分達の演奏力が向上する兆しがようやく見えてきた頃、
2011年3月11日。地震がありました。
ぼくは東京にいました。無傷でした。
すごく無傷でした。
警備のアルバイト中で、
ヘルメットと防災靴を身に着けていたのです。
それはもう五体満足、無事でした。
家まで6kmくらいの場所の警備をしていたので、
帰宅困難にもならずに平坦な道を徒歩で帰りました。
目指す方角がわかっていて、
距離がわかっていて
体力があるというありがたみを踏みしめました。
重たいかばんを背負いながら、
いろいろ考えました。
(警備員って装備や制服がかさばるので大荷物になりがち)
とんでもない長さの車の渋滞や、
歩いて大移動している人たちを横目に、
よく知ってる道をすこぶる安全に帰りました。
けど、ものすごくモヤモヤした気持ちで歩いたのを覚えてます。
その後、様々な悲劇が報道されていくなか、
計画停電だとか、バンドとはいったいなんだとか、
この非常時にけしからんなど、ぼくのなかでも、
周りでも、出会ったことのない感情がグルグルしました。
まーた存在意義について悩みます。もちろんバンドメンバーも。
音楽業界の収入の比率の変化、ライブによる集客、体験に基づく感情の起伏。
ぼくは、悶々とした空気の中でバンドをしながら、
ひとつの決断をしました。
それは、
何か「しか」出来ないやつでいるのはやめよう
ということでした。
このままバンドだけやっていたら、
ぼくはアマチュアレベルのバンドしか出来ないと思いました。高卒だし。
ボーカルも下の下。ギターも下の下。
作詞作曲もセンスまかせの下の下。
プラス、機材がないと出来ないということが
この先リスクになるような気がしました。
(この頃くらいから、
ミニマリストや断捨離という単語が流行り始めたのではなかったかな)
なので、少しずつ新しいことを始めました。
まずは、読書でした。
この時点でぼくは学歴も輝かしい履歴書もないので、
王道ルートの就職や正社員登用は選択肢にありませんでした。
そう世界が見えていた。
だから、自分の実力に賭けるしか道がないと思い、
勉強と感動をセットでもたらしてくれる読書を貪るように始めました。
心理学、哲学、小説、ビジネス書など
気になるものを片っ端からです。
気になった単語や響いた文章をメモしておいて、
作詞に活かそうと企んだりもしました。
もちろんお金がないので本は中古がメインでした。
「身銭を切ると真剣味が増すから頭に入る」みたいな
ビジネス書の言葉を鵜呑みにして、
中古でも買って読んでいました。
たとえ中古でも身銭は切ってます。
むしろエコだぜくらいの気持ちでした。
「本を一冊読むと、年収が10円上がる」…という
謎のマイルールを考えたりしました。
震災後の閉塞感の中で
バンド活動に疲れてきた2011年末、
古物商をはじめました。
インターネット上の古本屋です。
これが売れれば安く本を買ったことになるし、
本の中の知恵と販売実績がゲット出来るぞと思いました。
そして、「来年の春、バンドを解散しよう」とメンバーに話しました。
先がわからないまま、
バンド以外に使えるかもしれない時間を
メンバーから奪うのは申し訳ないと思いました。
メンバーもこの先の人生について考えずにはいられない状況でした。
2012年春、バンドは解散しました。
バンド活動がなくなり、
ぼくは久しぶりにシングルスプレーヤーになりました。
古物商を育てながら、読書しながら、
いくつかの掛け持ちバイトをしながら約3年。
前々から
バンド以外でやりたかったことに挑戦してみたい
と思うようになりました。
それは、
遊んで暮らしたい
ということです。
あ、いや、真面目です。つまり
楽しく生きてるだけで丸儲け
の状態になるということです。
楽しいの定義はイマ、ココの自分で決めるということです。
少しだけ具体化すると、人がお金を払ってくれる時、
そこには感動があったり欲望を満たしたり何かしらきっかけが存在します。
そのきっかけは、五感のいずれかから生まれます。
まず視覚、そして聴覚、触覚、味覚、嗅覚のどこかからスタートします。
そういうものを、創ればいいんだと思いました。
バンドバンドの貧乏生活の日々で
あまり出かけて来なかったぼくは、
外の世界に飢えていました。
(もちろん今もまだ飢えています。)
またアルバイトを変えて、
住み家を変えて写真を始めました。
バンド時代から一眼レフカッコいいなと思っていたのですが、
高くて手が出なかったのです。
週7日掛け持ちアルバイトで数ヶ月働いてなんとか購入し、
さっそく海外の投稿サイトに登山や風景の写真をアップしました。
アップしてから数ヶ月で写真の販売実績が出来ました。
はじめはたった数百円ですが、
写真でお金を稼ぐことに成功しました。
ぼくが撮影した写真が、お金になったのです。
ライブでオーディエンスを沸かせたくらい、
歌詞で人を泣かせたくらい、嬉しかったです。
自分が感動することで、感動をシェア出来るようになる→お金になる
という事実はバンド時代から気づいてました。
これに気づいて、
古物商(個人事業主)と写真家と
書評家(いつかは音楽家にも戻れたら)と、
別の五感たちを感動させられる仕組みを
このブログを書きながら探し続けることにしました。
正直、肩書きはそこまで重要視していません。
結局最終学歴は高卒ですが、
学歴もだんだん欲しくなくなってきました。
掛け持ちとかでアルバイトしまくるうちに、
学歴の関係の無さを目の当たりにしてきました。
しいて言えばクリエイターでしょうか。
昔ゲームクリエイターに憧れたので。
なければ創ればいいと思ってるので、
「のら勇者」という肩書きっぽいものも作りました。
それより、
イマ、ココを楽しんでいるかどうかが大事。
「健全なる精神は健全なる身体に宿る」
っていう状態かどうか、
そこからオリジナリティーがある
アウトプットにつながるかどうかだと思っています。
…って息巻いても、ぼくに似た感性の人はどうやらたぶん、
結構いっぱいいます。
趣味とかセンスとか目に見えない何か。
わりとメジャーな音楽とか好きだし。
だったら、それを活かせばいいことにも気づきました。
「ありきたりな感性」は共感を呼びやすい武器です。
そんなこんなで色々もがいてきたのですが、
その間、時代はどんどん前に進んでいます。
電子書籍やサブスクリプションなどが
どんどん活性化しています。
モノ(物質)からコト(体験)の時代にすでに突入しています。
ゆくゆくはパソコン、デジカメ、
ギターなどのアイテムがどれであっても、
使わなくても、
創作物にBrave味が出せるようにしていきたいと目論んでいます。
おわりに
まだまだ、ぼくの冒険は終わりません。
おわりに、とか書いておきながら。笑
むしろまだ何も始まっていないような気がしています。
自分で道を選んできたつもりだけれど、負けてばっかりです。
流されてここまで来たような、
自分でもがいて泳いで来たような。
ただ、いろんな卵にはなれたかな、
種まきは出来たのかなとは思っています。
この先は、種たちをぐんぐん育てていく時期だと思っています。
もちろんさらなる種まきも。
まだまだ見たい景色もある。
見せたい景色もある。
でもそれは、きっとみなさんもそうでしょう?
少しずつ、加筆修正を繰り返していきますね。
時間の流れは止められないけれど、
解釈は変化するものです。
一緒に冒険しましょう。勇者なんだから。
一緒に主行(しゅぎょう)しましょう。主人公なんだから。
Brave(ブレイブ)の長い長い自己紹介を
ここまで読んでくれてありがとうございます。
何かしらの価値を生み出せるようにがんばります。
なければ創ればいい。
それでは、ブログ「ぼくらは冒険主行中」本編でお会いしましょう。
ぼく、じゃなくてぼくら、なので、
よろしくお願いしますね。
2020年、追記
これを書いてから数年経ちました。
読み返すと、だいぶ照れくさいですね。
まあ昔の恥も黒歴史も、燃料にして走ろうと思います。
まだまだやりたいことがたくさんあります。
外の世界にも飢えている中で、
コロナがやって来ました。
いろんな方面でデジタル化も進んでいますが、
今の所この身はひとつきりなので、
まずは自分の心身の健康第一で乗り切りたいと思います。
これまでに働き方や暮らしをだいぶ見直しました。
時間の縛りはだいぶ減らすことが出来ました。お金はあんまりないですが…
どうやら可処分時間は武器です。
読書で力を蓄えられますからね。
あと、飢えていることそれ自体も、武器になる
ということに気づきました。
飢えてるのは生きたいってことだ。
気軽に出かけられるような時流になったら
見とけよーと思いながら
なんとか日々を過ごしています。
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…よく気づきましたねえ。
RPGの隠しダンジョンみたいなもんです。
2020年、キュレーターズギルド「王様の手札」メンバーになりました。
のら勇者はパーティになりました。まだまだレベル上げ中ですが、気が向いたら他のメンバーもぜひ。
移動呪文。
【向上心、読書・学習・回復・健康・美容・雑記 ぼくらは冒険主行中(このブログのHome)】
【功名心、お金・ビジネス・ガジェット マネ勉 アルジはマネーの勉強中】
【遊び心、マンガ・アニメ・音楽・趣味・娯楽 魔王の楽園】
【ギルド、王様の手札】
ここまで見てくれて本当にありがとうございます。